【親子の歴史】

両親の元で育って良かったこと(その3)前半

ずいぶんと期間が空きましたが「親の元で育って良かったこと」の3つめについてお話したいと思います。(参照:両親の元で育って良かったこと.その1)(参照:両親の元で育って良かったこと.その2)から読んでいただけたら嬉しいです。

その1.子育ての反面教師になった

その2.人が生きることについて深く考えるようになった

その3.親との人生と、親から離れた人生、2つの人生を生きることができた

親との人生

子どもしかいない家庭

私は苦しい子ども時代を過ごしました。この言葉はあまり好きではありませんが、私の母は典型的な「毒親」です。

自分があの頃の母の年齢を超え、子どもを育てている今だからはっきりと分かります。母は身体は大人でも、心は10代の子どもだったように思います。

つまり、子どもが子どもを育てているのです。10代の心で子どもを育てるのですから、うまくいくはずがありません。

これは私の印象ですが、特に同性(女同士)の私には、当たりがきつかったように思います。「自分が得られなかった幸せをどうしてこの子はやすやすと手に入れるの?」「どうしてこの子は恵まれているの?私はあんなに大変だったのに!」という母の怒りをいつも感じ取っていました。

連鎖してゆく家族

特にそれを感じたのが、節句の祝いや身体が第二次性徴に入ったとき、進学の時、成人式の時など、人生の節目の時でした。

おそらく母はそのような時、母の親(私の祖父母)からお祝いされたり、喜ばれたりしてこなかったのだと思います。

このことは私の娘の節句まで引きずりました。七五三のお祝いに「私は行かない!」と言って揉めたことがあります。どうしてそんなことをするのか分からず、とても悲しかったです。

親の「親」の役割

私の母は戦争の時に母親と父親が離婚しています。当時の離婚は珍しかったと思います。「私は捨てられた」と、吐き捨てるように言っていた母を覚えています。

母の父(私の祖父)の悪口は、子どもの頃から子ども全員に話していました。どんなに父親が酷い人間で、「捨てられた」母達が苦労をしたか。「お父さん(私の父)にも話していないけれど」と言って、母の家族の秘密を打ち明けられたこともあります。その秘密は、子どもが聞くには受け止めきれない、耐えられないものでした。

私は自分自身の「子ども」としての心が満たされないままに、母の「親」の役割をしていたように思います。親子が逆転していた子ども時代でした。

子どもは、楽しいことが学校であれば一緒に喜んでもらいたい、嬉しいことがあれば褒めてもらいたいと報告をしますが、たいてい母は不機嫌になり、私の心に大きく膨らんだ喜びやうれしさは、まるで風船に針で穴を空けたようにパンッと音を立ててしぼんでゆきました。悲しかったな。

傷ついた子ども同士

けれども母がどうしてそういう態度だったのかも、分かるのです。今と違って心の傷を癒やす方法も、助けの求め方も、知らなかったのだと思います。最近よく思うことがあるんです。

私達50代の親は、戦争で命は助かっても親を亡くしたり、貧しさを体験したり、それに伴うトラウマがあったりと心がとても傷ついています。そんな状況で家庭を作り、親になった。

今、毒親問題に苦しんでいる40代、50代が多いのは、そのような時代の背景があったように思います。そう考えると、親世代も苦しい子ども時代を過ごしたのだと、切なくなります。

傷ついた子どもが傷ついた子どもを作る。悲しい連鎖だと思います。

前半まとめ

親のもとにいたころは、心がいつも悲鳴をあげていました。

「私を認めて欲しい、愛してほしい、一緒に喜んでほしい、悲しい時にはなぐさめてほしい」

満たされない心がキリキリと痛み、夜には眠れなくて布団の中で泣くこともありました。そうして何度も母に求めて行くのですが、結果はいつも同じ。次は、次こそは、と気がついたらとっくに三十路を越えていました。

私は三十歳を過ぎて結婚しました。

家を出るとき「やっと自分の人生が始まる」と思ったものです。

長くなるので、続きは次回に。

やよい

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